建林松鶴堂(たてばやししょうかくどう)の生い立ちと今まで。
建林松鶴堂

建林松鶴堂とは?

大正八年から続く、漢方薬の製造、販売の会社です。上野にある店舗で、漢方相談を行っています。

創業の経緯

概略

大正元年、創業者の 建林 たてばやし 宰亮 さいすけ は、薬学校を卒業して、新潟医専(新潟医科大学付属病院)に勤めた。のちに宰亮が中心となって、医師と共に西洋の医療では改善出来ない患者を、創意工夫を重ねた漢方薬を開発して次々と治していった。さらに、その効果が実証された漢薬を用いて、より多くの人を救いたいと大正八年(1919年)に単身上京し、松鶴堂の看板を立てたのが上野の地であった。

今も、その志とノウハウは受け継がれ、上野で漢方の相談・販売を行うこと90年以上の漢方専門の老舗。親・子・孫と三代続く顧客も少なくない。

建林松鶴堂の明日への願い
自然に逆らわず、限りない愛情を、かけがえない生命に!

さらに詳しく

~建林松鶴堂オリジナル漢方の誕生から現在まで~時代背景

明治時代以降、西洋医学が主流な時代に、漢方を病院で取り入れたのは、当時としても稀であったに違いない。
では、なぜ漢方薬を新潟医専(新潟医科大学病院)で取り入れられることになったのか。

西洋から漢方へ

創業者 建林 たてばやし 宰亮 さいすけ は、薬剤師として新潟医専の勤務している時、高熱を出し病に臥したことから始まる。その高熱はドイツの最新の薬でも全く効果がなく、衰弱がすすむ。死を覚悟したのか宰亮は郷里に連絡した。すると郷里から漢方の書物が送られてきた。

建林の家系は江戸時代、周防の国(山口県東部)脇本陣を営んでいた。本陣に次ぐ身分の高い者が、利用する宿場であった。大名行列の藩医など有能な医師達も常連で、得難い秘伝の処方や書物を譲り受ける機会に恵まれ、実際に病を患う旅人達に治療を施し感謝されていたという。 
幼少の頃から漢方に馴れ親しんでいた宰亮は、書物から柴胡剤の薬方があてはまるだろうと、これを調合し服用してみると、たちまち効果が表れ症状が消え去った。

宰亮の決意

宰亮は、一向によくならない入院患者を気の毒に思い、自分も救われた漢方薬を患者本人と家族の了承を得て、服用してもらった。
すると重病の患者が、次々と良くなり退院していくではないか。不思議に思った医師達は、これはどうしたことかと患者から話を聞きだすと、漢方薬を服用して治ったことが分かった。難治の重病者を診察してきた医師達は、宰亮の漢方薬を治療に取り入れることにした。

医師の診断をもとに漢方処方を選定し、効果を確認・検討しながら漢方の治療が始まった。 ただ医薬書に載っている処方のままでは、効果に限界があったという。普通なら少しでも、良くなればと妥協するところであろうが、ここで終わらなかった。効果が不十分であれば生薬を加減して、より日本人に合う、より現代人のライフスタイル・疾患に合った処方の開発に着手した。それからは漢方の医学書を全国から集めては、寝る間を惜しんで研究した。医師と共に現代疾患に適応するために病状を確認しながら、開発した処方の効果を高めていく。
活躍の範囲は拡大し生活習慣病など慢性疾患、難治・効果不十分の外来患者に対しても医師から相談を受けるようになった。

書物から得た知識を実際に使いこなすことで、宰亮は漢方処方・生薬の妙(効能、組み合わせ、比率など)を修得し、次々とオリジナル処方を生み出し患者から感謝された。

上野の松鶴堂

漢方に専念して、もっと多くの苦しむ人々を救いたいと決意し上京、大正8年に漢方薬局 建林松鶴堂を始めた。当時は漢方一本の漢方薬局は少なく、持病、難病を抱えた人々が口づてに聞きつけては、南は鹿児島から、北は北海道まで、薬を求めにくる大勢のお客で連日大忙しであった。

朝夕に うれ いし病 治りなば
告げて助けよ 苦しむ人を
             玉堂(建林宰亮)

長男誕生

宰亮が50歳近くの時に、27歳離れた妻との間に長男 建林 たてばやし 邦信 くにとし (現会長)が誕生する。邦信は学校から帰ると店頭に立ち父親の宰亮から漢方のイロハを実地で学んだ。宰亮は夕方5時ちょうどに店の2階で酒を飲み始めた。(宰亮はたいそうな大酒飲みで、毎晩2升は飲んだ)
結局、小学生から邦信は毎日1人で店番をしていた。お客から相談を受けると2階へ上がり酒を飲む親父に指示された漢方薬を渡した。親父の処方する漢方を自然と予測できるようになった。松鶴堂の漢方で良くなったと感謝の言葉を店頭で聞くうちに邦信は真剣に漢方を学ぶ決意をする。

松鶴堂の発展

そして薬科大学に進学すると、跡継ぎも決まり安心したのか宰亮は亡くなった。その日は4月というのに東京では大雪が降った。大酒飲みでカッと血が上りやすかった宰亮は、満州に渡ったときから脳卒中を発症し漢方薬で幾度と治してきたが、最後は狭心症であった。
母静江が松鶴堂を切り盛りすることになり、邦信は毎日、大学が終わってから夜明けまで、漢方薬の製造を寝る間も惜しんで働く勤労学生となった。睡眠時間は通学の電車の中のみであった。邦信は店頭での相談を続けつつ、さらに漢方の書籍を集めては研究し、今では大家といわれる漢方医とも交流を深め、漢方談義を交わした。
またTVコマーシャルを始め、エキス顆粒を埼玉県の自社工場で製造し、全国の薬店で松鶴堂の漢方を販売も軌道にのせ、製薬メーカーとして、より質の高い漢方製剤をつくる使命も担うことになり社員数は70名を超える。

時代の 変遷 へんせん に伴い、新処方の立方されるべきこと、 但し、現代医学・薬学と共に在ることが、 建林松鶴堂の進む道である。  建林 頌雅(邦信)

漢方の発展

邦信の長男 佳壯 よしたけ (現社長)も誕生し幼少時代から漢方に馴れ親しみながら育ち、店頭に来るお客さんから感謝される父の姿を見て漢方の世界に入ることを決意、薬科大学へ進学し、店頭で漢方相談に没頭し創業者のスピリットを受け継ぎ、漢方医学の理論を邦信から学び 全国の漢方研修会に漢方の魅力を1人でも多くの方に伝えたいと漢方の研鑽を積んでいる。

平成23年佳壯が社長となり、邦信は会長へと代替わりした。邦信は現在、母校の明治薬科大学の客員教授となり、多くの薬学生に漢方の世界観を伝えるなど、日本の漢方の発展に寄与する取り組みを活動の中心においている。

上野 建林松鶴堂のご案内

今なお建林松鶴堂は、上野の地で漢方相談・販売を行い100年以上の漢方専門では老舗となりました。
上野の相談スタッフは、建林邦信と佳壯の両者から漢方理論の教育を受けていますので、身心の悩み、何なりとご相談下さいませ。
電話03-3843-3831
ご来店お待ちしております。
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